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安城厚生病院から梅ヶ丘学園へ

 前号で書いたことに補足すると、安城厚生病院を退院した後、
母親は私の小児喘息の治療をどうしたらよいか困りはてて、
今後について相談するために、岡崎の児童相談所を訪ねた。
多分一度は私もついていった気がする。そこで、紹介されたのが、
この年の九月から開設予定の虚弱児収容施設梅ヶ丘学園である。
当時小児喘息は親と一緒にいるよりも、空気の良いところで
転地療養したほうがよいという考えが広まりつつあっていて、
児童相談所でもその考えを受け入れていたようだ。私を一人で
遠くにやることには母親は躊躇したが、このまま一緒にいても
治りそうもなく、私を行かせる決断をした。私は親元を離れる
という寂しさを感じることもなく、新しい環境での生活を楽しみに
していたようだ。ところが、9月26日の伊勢湾台風の来襲で、
梅ヶ丘学園も被害を受け、入園が遅れた。結局入園できたのは、
その年の十二月二十四日、つまりクリスマスイブの日だった。
私は最初の入園者の一人だったが、全部で何人いたかは
覚えていない。十名もいなかったと思う。私が入った棟の
保母さんは、山中先生だった。退園するまでずっと面倒を
見ていただいた。要するに母親代わりなのだ。
小学校六年までこの園にいた。小学校については、
園から歩いて三十分ほどかかる挙母小学校に通った。
今は梅坪に小学校があるが、そのころは、梅坪の子も
挙母小学校に通った。私は、それまでまともに小学校に
通ったことがなかったので、学校というものに本格的に
通い出したのは、挙母小学校が初めてである。
小学校三年の三学期から通い、その後はほとんど
欠席することもなく、挙母小学校での日々を楽しく
過ごすことになった。学校から帰れば、食堂でおやつを
食べることができたし、宿題も保母さんが丁寧に教えて
くれるので、勉強について困ることは何もなかった。
休みの日は園の仲間と周辺の丘を歩き回った。
季節毎に楽しいことがあり、自然の豊かさを実感をもって
体験することができた。虫取りやキノコ取り、魚釣り、
いろんなことができた。
 学園の子供たちの多くは、私のような病気治療で入所
している子は少なく、ほとんどが様々な事情から親元を
離れざるをえない子供たちだった。そんな子たちと一緒に
生活することも楽しかった。みんな明るくて優しく、
私のような体の弱い人間を庇ってくれていた。
 今にして思えば梅ヶ丘学園に行っていなければ、
随分違う人生を送ることになっただろうと思わざるをえない。
多分短歌の世界に入ってこの歳まで続けているということも
なかっただろう。人との出会いを積極的に求めていくように
なったのは園での生活があったからだと思う。
また自分とは境遇の異なる子供たちと一緒に生活する
ことによって、人を差別することがどんなに理不尽である
かを身を持って知ることができた。
 ホームページで確認してみると、梅ヶ丘学園は、
現在は虚弱児収容施設ではなく児童養護施設となっていた。
ここまで書いてきて一度学園を訪ねてみたくなった。
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大府荘から安城厚生病院へ

 前号で書いたように国鉄刈谷駅で列車の発着時に宮城道雄の曲が
演奏されだしたのは、昭和三十三年七月二十日からである。
私はこの年小学校の二年生だったが、春の健康診断で、
何と肺に翳があると診断され、即刻大府荘に入所するよう
学校から指示された。大府荘というのは、国立の結核療養
所である。要するに結核患者と見なされたのである。
はっきりとは覚えていないが、五月の末から七月くらいまで、
大府荘に入所していたようだ。入所して一ヶ月ほどして、
再度レントゲン撮影したところ、何と翳はなかった。医者の
説明では、私が小児喘息だったので、その発作によって
翳らしきものが撮影されたのではないかとのことだった。
ということで、幸い結核をうつされることもなく、大府荘を
退所した。しかし、小児喘息の治療が必要ということで、
今度は、安城市にある安城厚生病院に行くことになった。
多分、大府荘退所後すぐに安城厚生病院に移ったと思う。
当時安城厚生病院は国鉄安城駅の近くにあったので、
私と母親は、刈谷から安城まで国鉄で行き、通院の後、
入院したのだろう。つまり、安城厚生病院に行くために
私は刈谷駅を利用したのだ。そして、刈谷駅で宮城道雄
の曲を聞いたのである。宮城道雄の曲が演奏されだした
のが、七月二十日であるので、私が安城厚生病院に
入院したのはそれ以後ということになる。

 安城厚生病院には、この昭和三十三年の夏から冬に
かけて入院していたのではないかと思う。最初医者は、
手術して治そうかと提案したが、私も母親もその提案を
断った。そうなると、入院はしたものの、大して治療する
ということもなく、私は所在なく毎日を送っていた。最初は
個室で母親が付き添っていたが、しばらくして大部屋に
移った。大部屋には若い女性がたくさんいた。多分中卒で
安城にある大手の紡績会社の日清紡績に勤めることに
なった人たちだと思う。女工さんといったほうが分かりや
すいかもしれない。なぜ女工さんたちがたくさん入院して
いたのかだが、工場内に拡散している繊維を吸い込むこと
によって蓄膿症になる人が多く、彼女たちは蓄膿症の手術を
するために入院していたのだ。当時八歳の私は、鉄腕アトム
の漫画など描いては女工さんたちに見せていた。女工さんたちは、
いつも私の漫画を賞めてくれた。今にして思えば、そんなに
賞められるようなものは描いてなかった気がする。子供を
悲しませてはいけないという女工さんたちの配慮があった
のだろう。
 その年の年末には退院したと思う。翌年の四月から元の
亀城小学校に通いはじめた。ただ学校にはほとんど行って
いない。その証拠に、小学校三年の時のことで、この小学校に
関わることで覚えているのは、伊勢湾台風で校舎の屋根が
飛ばされて通えなくなったということだけである。この後、私は、
年末のクリスマス・イブに、豊田市の梅坪にある梅ヶ丘学園
という虚弱児収容施設に入園することになる。
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私の住んでいる隣町の東浦町のしののめ短歌会が
発行している「しののめ」という雑誌の巻頭の記事を
連載で書いているのですが、昨年の秋から冬にかけて、
少年時代のことを書いたので、その記事を順にここ
で紹介したいと思います。
まず、11月号から。

この号の井村徳光さんの三首の中にこんな歌があります。

  琴の音をプラットフォームに聞きたるは刈谷駅での遠い日のこと

 私も幼い頃刈谷駅でこの「琴の音」を聞いたことがあります。列車が
到着すると流されるのです。この曲は、皆さんご存知の宮城道雄作曲の
「春の海」です。なぜ宮城道雄の箏曲が刈谷駅で流されたのか。以前は
刈谷の人の多くはその言われを知っていたと思いますが、もう随分前の
ことなので、忘れ去られてしまったようです。
箏曲家宮城道雄は昭和三十一年六月二十五日未明、刈谷駅付近を
通過中の夜行急行「銀河」から誤って落ちて亡くなりました。
刈谷駅近くの転落場所には、立派な供養塔が建てられています。
 これは偶然ですが、この号の井村さんの「風窓」のエッセイには、
内田百閒の書いた「ノラや」と題する文章のことが紹介されています。
内田百閒は、夏目漱石の高弟ですが、宮城道雄とも親交があり、
この事故の後、「東海道刈谷駅」という題名の小説を書いています。
実は、刈谷駅で宮城道雄の箏曲が流されるきっかけを作ったのは、
内田百閒なのです。
内田百閒は、事故現場近くに建てられた供養塔を訪れた際、
当時の刈谷駅長に、宮城道雄の箏曲を刈谷駅で流す提案を
したのです。この一部始終について、当時の中日新聞に記事が
掲載されました。この記事は『東海道刈谷駅』(旺文社文庫版)の
巻末に載せられている「『東海道刈谷駅』雑記」に引用されています
ので、紹介します。
なお、この「雑記」は、百閒の弟子の平山三郎が書いたものです。

 ○三十三年八月二十六日中部日本新聞。
 (見出し)「二つの名曲駅」
 (本文)刈谷駅が列車の発着時に故宮城道雄氏をしのんで同氏作曲の
数々の名曲を構内 放送で演奏し始めたのは今年七月二十日からである。
宮城氏が刈谷市重原焔焇倉地内で 進行中の列車から転落、不慮の死を
とげたのは一昨年六月二十六日、遭難の地には昨年 五月貞子未亡人、
宮城会、刈谷市、同教育委員会などの手により立派な供養塔と交通安
全地蔵尊が建立された。
「内田百閒氏の提案」……去る六月五日(百閒氏が供養塔にお
 参りしての帰途、刈谷駅長に「刈谷駅で宮城名曲を放送
しては」と提案)帰京後国鉄本社にも持込むとともに「週刊新潮」に
「刈谷駅を滝廉太郎の『荒城の月』を演奏している九州の豊後竹田駅
についで第二の名曲駅にした」という意味の寄稿をしている。(略)
 この記事を読みながら、なぜ私が宮城道雄の曲を刈谷駅で聞いた
のかを考えました。私は当時名鉄三河線の刈谷市駅まで徒歩十分
ほどの寺横町に住んでいたので、刈谷駅を利用することはなかった
はずです。それなのに、刈谷駅に行かなければならなかったのは
なぜなのか。不思議なことです。
そして、よくよく考えてみて思い出しました。
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「週刊新潮」11月26日初霜月増大号を購入。
というのも、11月13日に結婚に向けての
眞子さまのお気持ちが発表されたが、
それについての識者のコメントの中に
静岡福祉大学の名誉教授小田部雄次さんのコメントもあると聞き、購入。
小田部さんのコメントの題が凄い。
「無職男に嫁ぐ生活設計を知りたい」。
もちろんこの題は編集者がつけたもの。
小田部さん本人も驚いていたとか。
うーん、確かに小室さんは当面無職であることは間違いない。
結婚生活を維持するための経済的基盤が無いのに、
結婚生活を始めようというのは、無謀である。
まさか私たちの税金から出される国費をあてにしているという
のなら、きちんと説明してほしいというのが、
小田部さんの意見でごく真っ当な意見だ。

ところで、この号の特別読み物の「深沢七郎と私」が
無茶苦茶面白かった。
深沢の性癖に関わることなので、ここでは書けないが、
体験したものにしか書けない、実に興味深い内容が
これでもかというくらい書いてあって、
ずいぶん得をした感じ。
小田部さんに感謝しなくてはいけない。
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昨日話題にした清水丈夫は、
調べてみると中核派の最高幹部で、
長く潜伏していたようです。
ところが、9月6日の政治集会に突然あらわれて話題になったのです。
小池さんは、そのニュースをネタに詠んだわけです。
しかし、清水丈夫と言われても、
多くの人は反応しないのに、
小池さんは反応したわけだから、
いくばくかは、政治闘争に関心があったのでしょう。
ぼくの大学時代の友人の中には、
中核派に関わった者が何人かいますが、
清水丈夫なんて名前は
彼らから聞いたことはありませんでした。
というより、そのころには彼はもう潜伏していたのでしょう。
大学には、革マル派の連中もいましたが、
革マル派は苦手でした。
とにかく理屈っぽい。
中核派の連中のほうが隙があるというか、
何かしら人間味のあったような気がします。
そして、論理性に乏しかった。
情念で動いているという感じがした。


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