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二上山

2014/05/27

遅まきながら、
「短歌」4月号の
高野さんの「ビクトグラム」31首を読んだ。
読んでこの一首を見つけて驚いた。
詞書きはこう。

月山一九八四米、焼岳二四五五米、二上山五一七米

そして歌は。

・登りたる最高地点、芭蕉月山、牧水焼岳、われは二上

つまり、高野さんが登った最高地点は、
標高517メートルの二上山なのだ。
ぼくも高野さんと一緒に二上山に登った。
「桟橋」の一泊批評会が奈良であったときのこと。
二日目のイベントが二上山に登ること。
やめたいなあと思っていたが、
担当のKさんが簡単に登れる山と言われたので、
信じて登った。
ところが、とんでもない山だった。
坂がむちゃくちゃ急だから、たまらない。
僕などは、もう帰ろうかと何度も思ったくらい。
高野さんも相当まいっていた。
それにしても、
高野さんは、二上山より高い所に行ったことはないのだろうか。
例えば、上高地に行ったことはないのだろうか。
不思議な気がする。
因みにぼくは、
立山の雄山に登ったことがある。
標高3000メートルを超えている。
うーん、これだけは高野さんに勝ったなと
単純に喜んでいる。
これだけだから、
ぼくは高野さんに「鈴木くんは、馬鹿だねえ。」
と言われるのだろう。
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5月25日

2014/05/25

昨日から一泊で有馬温泉に出かける。
「棧橋」の最後の一泊批評会に参加するため。
昨日は13時から18時まで118号の批評を行い、
その後懇親会。
そして、さらに懇親会の第2ラウンド。
結局寝たのは、2時を過ぎていた。
今日は7時前におき、
9時に解散。
ぼくは、一人三宮のフロインドリーブに向かう。
三宮の駅を降りてからが大変。
道に迷ってしまった。
何しろ、フロインドリーブを最後に訪れたのは、
阪神淡路大震災の前だから、
もう20年以上前だ。
やっと見つけたフロインドリーブは
本当に様変わりしていた。
震災で三宮はかなりの被害を受けたのだから、
様変わりも当たり前なのだ。
それをかつての面影を探しもとめていたから、
見つかるはずがない。
目的のものを手に入れて、
新神戸の駅から帰途につく。
帰ったら、
山口の鈴木千登世さんの歌集が届いていた。
『向きあふ椅子』(柊書房)という歌集。
装画用の絵をひがしはまねさんが
書いていて、びっくり。
鈴木さんが頼んだようだ。
心のあたたまるしっとりとした絵で
いいなあと思う。
そういえば、
高野さんが、
この「竹の子日記」について言及されるので、
不思議に思っていたら、
娘さんに教えてもらっているとのこと。
つまりひがしはまねさんが、
この日記で、高野さんの記述を見つけると、
高野さんに教えていらっしゃるようだ。
実にありがたいことだ。
それから、
ぼくが「コスモス」のバックナンバーをほとんど
所有していることを高野さんに申しあげたら、
高野さんが、
バックナンバーを所有しているのは、
古屋さんと編集室だけだと思っていたが、
君のところにもそろっているんだと
少し驚いてみえた。
でも、バックナンバーの前半部分は、
高野さんにいただいたのだが。

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短歌月評

2014/05/18

昨日の「中日」の夕刊に掲載された
斉藤斎藤の「短歌月評」で、
大松くんの『ゆりかごのうた』(六花書林)を取り上げている。
タイトルが「そして父になる」というのがいい。
そして、評も実にあたたかい評で、
ぼくは、斉藤氏には失礼な言い方だが、
かなり見直した。
こういう評も書けるんだなと。
まあ、とにかく頭のいい人だという印象は
ずっと持っていたが、
この評のようなあたたかさも出せるのだから、
やはり彼の力量は、
並々ではないなあとつくづく思った。
この評を読んで、
大松くんの歌集を読みたくなった人はかなりいると思う。
喜ばしいことだ。
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感想

2014/05/14

今日届いたコスモス短歌会新潟県支部の
支部誌「河」141号を見ていたら、
「わが歌の風土」という欄で、
田宮朋子さんが「寺泊の寺に生まれて」
という文章を書いているのを見つけた。
これまでの半生を回顧し、
短歌との出会いを書いている文章だが、
真率な言葉に、まさに心をうたれたとしかいいようがない。
清く澄んだ文章だ。
田宮さんは、初めて参加したコスモスの全国大会は、
弥彦の全国大会と書いているが、
ぼくもその大会には参加していて、お見かけした記憶がある。
その時期は京都在住とある。
その二年後の京都大会が二回目で、
田宮さんは、この時には長岡に居をかまえられていたが、
この大会のことを次のように書いている。
多分、この出会いがなければ今日の田宮さんはなかったと思う。

「この時はじめて高野公彦氏にお会いした。
それまで高野氏の作品世界に漠然と惹かれていたが、
お会いしてからは短歌の師と思うようになった。」

この京都の大会にもぼくは参加していて、
当時もう恒例になっていた高野さんや奥村さんを
中心とした正規の懇親会後の懇親会に参加した。
その時、その場で「田宮朋子」という名前をぼくは知った。
その後「桟橋」のメンバーになる人たちが
小さな部屋いっぱいに集まって夜の更けるのもかまわず
延々と飲み、語らうという場面に初めて当事者となって、
短歌の集まりにもこんなに楽しいところがあるんだと
ぼくはこの大会に参加したことを本当に嬉しく思った。
またさらに土産もあって、
ホテルの土産物店で家族に買うものを
探していたら、
宮英子さんに声をかけていただいた。
このことも一生忘れられない思い出である。
今も会場となったホテルの前を通ると、
本当にその当時のことを懐かしく思い出す。
昭和62年は、田宮さんにとっても、
ぼくにとっても大切な年だったことを
田宮さんの文章を読みながら思い出した。




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出講

2014/05/14

三重県桑名市の大山田公民館へ出かける。
今年度より公民館の講座を担当することになり、
本日が第一回目。
月に一回で都合6回の講座。
講座名は、「短歌の物語」。
ちよっと気合いを入れすぎた名称かとは思ったが、
名前倒れにならないように、がんばろうと思う。
受講者は22名。
今日は、自己紹介と正岡子規の短歌について話す。
残念ながら、時間が足らず、
子規については、次回も少し話すつもり。
自己紹介のところで、
刈谷市出身の森銑三先生について聞いてみたが、
残念ながらどなたもご存じなかった。
そういうものですね。

帰ってみると、
昨日お通夜に出かけた
刈谷高校時代担任した生徒と
同学年の同窓会の案内が来ていた。
ぼくは刈谷高校に8年いたが、
その最後の年に担任した生徒たちの中で
もう二人も他界してしまったのは、本当に悲しい。
9年前に葉書の通信欄をまとめた文集が出ていて、
その二人の幸せに満ちた文面を
改めて読んでいると、
堪らなく辛い気持ちになる。
まだ早い、そう言いたいのだが。

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大松達知くんの第四歌集『ゆりかごのうた』(六花書林)が
刊行された。
この歌集の一番の特徴は、
ご長女の育児に関わる歌がたくさん収められていること。
要するに育メン歌集だということ。
100頁以降ほとんどがそう。
ぼくも共働きだったから、
育児を手伝ったが、
歌にすることはほとんどなかったと思う。
毎日がぎりぎりの状態で、
詠草をコスモスに送っていたこと自体が
今にして思うと信じられない。
もちろん、その頃の歌を読む気はしない。
大松くんの歌集にはこんな歌があります。

・〈ゆりかごのうた〉をうたへばよく眠る白秋系の歌人のむすめ

感想は、ほんまかいな。
ということは、我が家の子供たちにも「ゆりかごのうた」
を歌っていたら、よく眠ったのかなあなどと馬鹿なことを
つい考えてしまう。
でも、ぼくは音痴だから、そもそも話にならない。
この歌の次はこんな歌。

・さんざんにざんざん泣いてゐたりしにはたりと寝たるのちのさみしさ

結句がいいですね。
この微妙なところがいい。
さらに次の歌。

・寝かしつけてふすまを閉める おまへひとり小舟に乗せて流せるごとく

この直喩は下敷きがある気がするが、わからない。
少しおいてこんな歌もある。

・おまへを揺らしながらおまへの歌を作るおまへにひとりだけの男親

まさに育メン歌人ここにありという歌。
ところでこういう歌がぼくは好き。

・きんつばのきんつばによるきんつばのためのわたしの夜のきんつば

ぼくもきんつばが好きだ。
でも、最近は食べない。
食べたいが食べない。
あの甘さはヤバイと思うから。
ところで、この歌はもちろんリンカーンのあの有名な
フレーズをいただいている歌ですね。

さて、最後に気がついたこと。
育メンの歌をいくら読んでも、
この娘さんの名前は出てこない。
そういうものなのだろう。
個人情報ですから。
13年後に娘さんに文句を言われるのを避けたのだろう。
ところが、
小島ゆかりさんの第12歌集には、
大松くんの娘さんの名前が詠まれている。
関心のある方は、
この小島さんの歌集も読んでみてください。
どの頁にあるかなんて親切なことは書かないので、
どうぞご自分でお探しください。
『泥と青葉』という不思議なタイトルがついています。
青磁社から三月に出されました。


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