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ある人の依頼で、
『私の戦後短歌史』を書庫で探したのだが、
最初は見つからず、
二度目でようやく見つけた。
この本は、
小高賢さんが岡井さんにインタビューした記事をまとめたものだが、
私はこの本を買わなかったようだ。
というのは、
さきほど頁を繰っていて、
何と小高さんが書かれた一筆箋が出てきて、
そこにこんなことが記してあった。

「Mさんより連絡をうけました。
読んで下さるとのこと、恐縮しています。」

とあるから、小高さんが送ってくださったのだ。
しかし、どう考えても、恐縮するのは、
私のほうだ。
私がどのようなお願いをしたのかもう覚えていないが、
随分態度が横柄ではなかったかと思われて、
やはり謙虚でないと駄目だよなと、痛感するばかり。
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「コスモス愛知」の次号用の原稿を整理していて、
辻本美加さんの手紙を見つけた。
昨年5月に行われた有馬温泉での
「棧橋」118号の批評会の会場で、
「コスモス愛知」用の原稿を依頼したのだが、
その原稿と一緒に入っていたものだ。
手書きの原稿のほうは残念ながら、
こんなことになると思っていなかったので処分してしまった。
今にして思えば残しておくべきだった。
辻本さんの原稿が掲載されたのは、
昨年10月1日発行の「コスモス愛知」535号である。

辻本さんは、
宮英子さんが亡くなられた前日の
6月25日に亡くなられた。
第一歌集を出されたばかりだったのに、
あまりに突然の死であり、
「棧橋」の仲間の悲嘆は言い尽くしがたい。
メールで訃報が届いたときには、
ぼくも何を言っていいのか分からなかった。
言葉を失うということがどういうことなのか、
まざまざと体験した。
病とは言え、
あまりに理不尽な死でないかと言いたくなる。

宮英子さんを偲ぶ会には、
ご主人と息子さんが出席されていた。
会が始まる前、
ロビーの片隅でお二人が座りこんでいるのを
見ながら、ぼくは言葉を探したが見つからなかった。

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遅まきながら7月6日の「朝日」の「歌壇 俳壇」欄を読む。
真中朋久さんの文章が嬉しい。
宮柊二先生の
「おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ」

「中国に兵なりし日の五カ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ」
の二首を引用されているのが嬉しい。
この二首は、大学の授業でも必ず紹介する。
こういう雲行きのあやしい時代だからこそ、
宮柊二先生の『山西省』はぜひ多くの人々に読んでもらいたい。
戦争というものが本質的にもつ非情さを確認してほしい。
それから、
永田和宏さんの選歌を見ていて驚いた。
何と直木孝次郎氏が投稿しているのだ。
直木氏は高名な歴史学者だ。
投稿歌はこのような歌。

・特攻は命じた者は安全で命じられたる者だけが死ぬ

直木氏も昨今の法案審議に居たたまれなくなったのではなかろうか。
黙っていられなくなったのだ。
今、そういう人たちの声がわき上がってきている。
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昨日は、
愛知支部の歌会の日であったが、
先月の26日に亡くなられた、
宮英子さんを偲ぶ会に出かける。
会場のアルカディア市ヶ谷には、12時ごろ着く。
たくさんの方が来られていて嬉しくなった。
献花をした後は、しばらくロビーで知り合いと話をする。
会の司会は小島ゆかりさん。
最初の挨拶は高野公彦さん。
献杯の挨拶は岡野弘彦さん。
実にありがたいことだ。
献花は英子さんの大好きなカーネーションが用意してあり、
献杯も英子さんの大好きなワインが用意されていて、
コスモスの編集部の方々のご努力に敬服するばかりだった。
ただ1時過ぎからワインを飲んでしまったので、
もう後の記憶は断続的で情けない。
3時前に奥村さんの挨拶で散会は。
もちろん二次会。
会場は二階のレストラン。
二次会はビールのみ。
隣の席が外塚さんだった。
相変わらず元気。
こちらには5時過ぎまで。
そして三次会。
アルカディア市ヶ谷を出て、少し行ったところ。
こちらは何と9時過ぎまで。
何を飲んだのかもほとんど覚えていない。
焼酎を飲んでいたような気がする。
それで慌てて帰ったが、
結局午前様になってしまった。
たくさんの方とお話ししたが、
一番楽しく話ができたのは、歌人ではない、
Hさんだった。
短歌をほとんど読まないというのには驚いたが、
でも、筋がとおっているからいいなあと思った。
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「現代短歌」8月号も届く。
特集は「秘蔵の写真2」。
この特集に関わって、
題詠7首を載せている。
題は身も蓋もなく「写真」。
何とも芸がない。
1首のみ紹介。

・アルバムに写真を貼りてゆくといふ地道なことはわれにはできぬ

「秘蔵の写真」では、
久保美洋子さんが、
高野さんとのツーショットを載せている。
高野さんは40代の後半に入ったころ。
小島ゆかりさんもツーショット。
こちらは、見てのお楽しみ。
齋藤史さんの写真が3枚続いて載せられているのには驚いた。
この号には小島ゆかりさんの「全席指定」と題する20首が掲載されている。
冒頭の歌。

・そして四年 時間は流れみちのくに通雅さんと飲む夏の酒

「通雅さん」は、もちろん仙台在住の佐藤通雅さん。


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「歌壇」8月号が届く。
時評を執筆。
大島史洋さんが「短歌研究」6月号に書いた
田井さんへの追悼文に関わって、
小生の要望を書き連ねた。

この号には、
高野さんの20首が掲載されている。
その中の一首は、まさに我が意を得たりという歌。

・読みゆくに歌集『光儀』は邃(おくふか)く言々(げんげん)うつくしく艶ひ出づ

こんな歌もある。

・帰宅して酔ひの続きにふふむ酒 少年老いやすく歌成りがたし

一種のパロディー。
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加藤治郎さんが毎週金曜日の中日新聞の夕刊に
に連載している「東海のうたびと」の第五回は、浅野梨郷。
この文章中で、
先週の土曜日、文化のみち二葉館で行われた、
浅野梨郷の歌業について語り合ったイベントを
紹介してくれている。
ぼくの名前も登場するので、その箇所を紹介する。

「梨郷の歌業で注目されるのは二四年創刊の「日光」への
参加だ。鈴木竹志の指摘どおり白秋との関わりが梨郷参加
の契機だったと想定できる。」

ぼくは、イベントでは、白秋が梨郷に送った長文の手紙の
内容を中心に語った。その中で、こういう手紙のやりとりの
中で、白秋にも梨郷は認められたのではないかと述べた。
戦後の梨郷について、加藤さんは次のように書いてくれた。
実にありがたい文章である。

「五六年に中部日本歌人会を設立。後に委員長に就任して、
八十九歳で亡くなるまで名古屋歌壇の発展に尽くした。中部
日本歌人会は、現在も多くの歌人の拠り所である。」

もちろん加藤さんも中部日本歌人会の会員である。

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『棧橋 三十年の年表とアルバム』が届いた。
『棧橋』各号の内容と各批評会の出席者が網羅されている上に、
一泊批評会の写真や周年記念の会の写真が掲載されている。
実に貴重な資料。
年表を辿ってゆくと、
歌壇の方たちとの出会いは、
ほとんど『棧橋』経由であったことを改めて知る。
写真の一枚目は、
「ユーカリ荘近くにて」とある。
十周年記念の題詠歌会が伊豆であり、
会場がこのユーカリ荘。
ぼくは44歳だが、髪は真っ黒。
そして、写真を追ってゆくと、
いつの間にか真っ白。
20年の歳月の厳しさを痛感。

この本は、柊書房刊で、
定価2000円とあるから、
柊書房に連絡すれば手に入れることはできるのでは。
なお、この本の巻頭には、
高野さんが「各自の一歩を踏み出すために」と題する
文章を書いている。
この文章中、参加した全同人の名前が記されている。
全同人数は、135名。
最終メンバーは85名。
この文章を読んでいるだけで、
さまざまなことが思い出されてならない。
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