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その人

2020/07/27

昨日書いた記事について補足する。
その人について、
あいまいな記述をしていたようなので、
正確に記しておく。
「その人」は、現在コスモスには所属していない。
というより、今現在彼がどこでどうしているかを知らない。
歌壇関係の名簿にも彼の名前はない。
1978年5月に出された「コスモス」の合同歌集
「宇宙の花」にも彼の名前はないので、
多分、70年代の初めには、コスモスから離れたのではないかと思う。
結社誌というものは、
退会者の名前は記さないので、
この程度の幅でしか言えない。
ということで、
私はコスモスに関わる会合で、
「その人」には会ったことはないと確信できた。

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今日届いた「波」に連載されている
永田和宏さんの「あなたと出会って、それから……」を
読んでいたら、河野裕子さんの初恋の相手が誰なのか、
分かってしまった。
実は、永田淳さんの評伝には、
すでにNさんとして登場しているのだが、
評伝のほうでは、漠然とコスモスの人間だとわかるものの、
特定するのは無理だった。
しかし、今回は、永田さんが、
河野さんの日記の該当部分を引用しているので、
ぼくには見当がついてしまったのだ。
河野さんはその人との出会いを克明に書いている。
永田さんは日記に書かれた36ページにもわたる
大会の記録から、その人に関わる部分をかなり引用しているが、
ドキュメントとしての重要性を意識されているからだろうか。
ぼくみたいな外部の者からすると、
もう少しカットしてもよかったのではないかと思うのだが。

昭和42年に屋島で開催されたコスモスの全国大会で、
河野さんはその人と出会い、手紙を交わすようになったのだ。
その人は、当時宮先生の秘書のような立場で
行動していたようだ。
以前は高野さんがその役割をしていたが、
その年、高野さんは結婚しているので、
その人に交代したようだ。
ぼくはその人とは面識がないような気がする。
ただ歌集はずっといただいているから、
ひょっとしたら、中の会の関係で会っていたのかもしれない。
でも、会っていない気がする。
少なくともコスモスに関わる会ではあったことはない。
この「波」の連載をその人が読んだら、
そういえば、そんな時期もあったなあと懐かしく思い出しているだろうか。


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昨日はコスモス短歌会愛知支部の歌会。
名古屋市短歌会館で13時より。
出詠は15名。
出席は6名。
最近の感染状況では、やむをえない。
もちろん紙上参加も可としている。
高点歌は、
山田恵里さんのこの歌。

・「ほぼほぼ」といふ語脳(なづき)は拒めどもほぼほぼ馴染みほぼ定着す

アイデアもあり、リフレインも効いている歌。
7票獲得。
出席者及び欠席者のコメントで進行。

なお、8月16日の歌会については、
会場を使わず、全員紙上歌会に変更。
お盆の時期なので、
例年出席者が少ないし、
今年はこの後の感染状況がどう推移するか分からないので、
紙上歌会にした。

3時には終了。
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「コスモス」8月号の巻末の「コスモス便」で、
小島ゆかりさんがこんなことを書いている。

「六月末に転居予定のわ
が家は、ただいま断捨離
の真っ最中。これまでよ
り狭い家になるので、多
くのものを売ったり譲った
り捨てたり……。迷いに
迷い、残念な気持ちも味
わいながら、しだいしだ
いに物欲は去り、気づく
と、どうしても手放せな
いのは、本と猫たちだけ
でした。」

三年前の夏にぼくも同じ経験をしました。
ぼくの場合は、ため込んだ雑誌を、
郡上の古今伝授の里の図書館に寄贈しました。
500冊程度は送ったかな。
古本屋には1000冊程度は引き取ってもらったはず。
もうあまり覚えていない。
そしてやむなく処分した本もある。
それでも、今の書庫には、
短歌関係だけでも5000冊はあるかな。
果たして、小島さんは、新しい家にどれほど
移したのだろうか。

小島さんの新しい住所はよく知らないが、
小金井市とか。


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「コスモス」8月号が届く。
この号の「展望」欄を担当している。
大島史洋さんの『どんぐり』について書かせていただいた。
この文中に、高野さんの歌を引用した。
『雨月』の有名な歌である。

・雨月の夜蜜の暗さとなりにけり野沢凡兆その妻羽紅

何と偶然なのだが、
この号の「新・評論の場」の
「人名の入った歌」と題する鈴木千登世さんの
評論にもこの歌が引用されている。

こういう偶然はめったにないことだと思う。

ところで、この号では、
「紙上全国大会」の案内がなされている。
全国大会開催を断念したので、
その代わりを紙上で行うというものだ。
選者は応募できず、
何か別の趣向に参加するらしい。
詳細については、まだ聞いていない。
とにかく多くの人に参加していただき、
盛り上げたいものだ。
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三井修さんから『雪降る国から砂降る国へ』(青磁社)を送っていただいた。
「三井修エッセイ集」とあるが、評論集といってもよいだろう。
四部構成。
「古里のこと」「古里の歌人たち」「アラビア語圏で」「歌人論」。
どれも読みごたえがあるが、
坪野哲久や岡部文夫、木俣修、津川洋三について
書かれた「古里の歌人たち」が一番嬉しい評論である。
ただ一つどうにも困ったことがある。
こういう評論中心の本の場合は、
必ず初出について記してあるものなのだが、
この本にはない。
初出一覧がないというのは、なんとも困ってしまう。
いつ書かれたかも、
どんな雑誌に書かれたのかも分からない。
こういう本はめったにないので、
あえて三井さんは、初出については明記しなかったのだろう。
それにしてもというのが、
ぼくの率直な思いだ。
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「歌壇」8月号の巻頭詠は、
高野公彦さんの「檜原村人里」20首。
「人里」は「へんぼり」と読むようだ。
中にこんな歌がある。

・歩きつつ<位牌>を覗く若者らみなマスクして令和二年初夏

実に過激な歌だ。スマホが「位牌」になってしまった。
16冊目の歌集『無縫の海』には、こんな歌があるが、
この歌よりはよほど穏便である。

・歩きスマホ立ちスマホする人ら満ち窈然とあり日本の行方

こんな歌もある。

・肉体は臓器もろとも老いゆかむしんしんと<地球時計>が回る

因みに高野さんの第一評論集は、
『地球時計の瞑想』。
もう一首挙げる。少しさびしい歌。

・一日に三食、十笑、三千歩。十笑あらず一人暮らしは

下句のさびしさをしみじみと思う。

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塔事典

2020/07/12

2014年に刊行された『塔事典』には、
岡井隆の項目もある。
執筆者は何と薮内亮輔くん。
「何と」と書いたのは、二つ理由がある。
一つは、薮内くんは、すでに塔短歌会にはいないということ。
もう一つは、
薮内くんの第一歌集『海蛇と珊瑚』の帯文は、
岡井さんが書いているということ。
薮内くんは、
岡井さんが高安国世に対して厳しい姿勢を見せるのは、
「エディプスコンプレックス」だと書いている。
果たしてそうか。
今後検証されることだろう。

多分、これから本格的な岡井隆論が書かれるだろう。
薮内くんには、ぜひ書いてほしい。
残念ながら、ぼくはもう岡井さんについての
論を書くことはないだろう。
他にやらなくはと考えていることが多すぎるからという
単純に時間との闘いという理由で。
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岡井さんと最後に言葉を交わしたのは、
名古屋ではなく、京都だった。
『岩波現代短歌辞典』の執筆者打ち合わせに
京都に出たときだった。
大谷雅彦さんと一緒に会場に入っていったら、
ぼくと大谷さんの髪が様変わりしていたのに、
驚いていらっしゃったことをよく覚えている。
その後のことは何も覚えていない。
懇親会のようなものもなかった気がする。
でも、京都まで出かけて何もなく、
帰るということはなかったのかなあ、
調べれば、何か資料は出てくるはずだが、
とにかくほとんど忘れてしまった。
『岩波現代短歌辞典』が刊行されたのは、
1999年の暮れだったから、
その二、三年前だったと思う。
ということは、もう四半世紀が経つわけだ。
まさに光陰矢の如し。
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人短歌会は、1993年9月に解散する。
私の手元にあるのは、2月号。
昨日書いたように、解散の気配など微塵もない。
人短歌会解散後、
会員たちは、まとまることなく、
幾つかのグループに分かれて、
新たな雑誌を出してゆく。

成瀬有、安江茂、一ノ関忠人らは「白鳥」に。
沢口芙美、小宮山久子、中井昌一らは「 滄」に。
藤井常世、秋山佐和子らは「笛」に。
中西洋子、臼田美佐尾らは「相聞」に。
秋山佐和子は「笛」を離れて、
「玉ゆら」を創刊する。

このように「人短歌会」系の雑誌が多くあり、
今も、それぞれの雑誌は、遅滞なく発行されている。

近現代短歌史において、
こういう現象は非常に珍しいと私は思っているが、
単に私が疎いだけなのだろうか。
「明星」終刊後も多くの雑誌は出されたようだが、
つまびらかにしない。
ただ「明星」終刊後に生まれた雑誌は長続きはしていない。
ところが「人」終刊後の雑誌は、
もう25年以上は続いているのだから、
やはり珍しい現象と言えるのではないか。

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