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北上次郎の『書評稼業四十年』を読んでいて、
こんな箇所に出くわした。
53ページ。
佐藤多佳子が『一瞬の風になれ』で
本屋大賞を受賞したときの二次会の話。
以下、引用する。

新潮社の田中範夫がトイレを探して店内で迷い、偶然にも
ふらふらと私たちの席の近くまでやってきて、「あれ、なんで
北上さん、こんなところにいるんですか。佐藤さんの打ち上げ、
向こうでやっていますよ」と言うので、そちらにお邪魔したので
ある。すると、各社の編集者がたくさんいた。顔を知っている
人もいれば、知らない人もいる。すると、一人の男が「あ、
こいつ、おれのこと、覚えていないな」と察して、ぱっと立ち
上がり、名刺を差し出してきた。帰宅してから名刺を調べる
と、その男の名刺が四枚もあった。講談社の国兼秀二である。
こうやって、向こうから名刺をくれる人はいいのだが、ほんの
たまにパーティに出た時、旧知の人のように話かけてくる人が
いたりすると、今さらな名前は聞けないし、困ってしまうのである。

こういう発見があるから、
ついついいろんな本を読んでしまうのである。
短歌とは関係ない本を読んでいて、
短歌に関わりのあることを発見すると、本当に楽しい。
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池田理代子さんの第一歌集『寂しき骨』を昨日購入。
歌集というよりは、解説の永田和宏さんが書いているように
歌文集という感じ。
だから文章のほうをついつい読んでしまい、
歌の方は後回し。
そもそもぼくは、池田さんの漫画を読んだことがない。
あの「ベルサイユのばら」も読んだことがない。
年齢的には池田さんが三歳上になるから、
ほとんど同世代なのだが、
「ベルばら」を読みたいと思ったこともなかった。
何せいまだに「ビッグコミック」を読んでいるくらいだから、
あまり女性の漫画家に関心がなかったことは確かだ。
女性の漫画家で一番好きなのは高野文子だ。
近藤ようこもかなり読んでいる。

ところで、池田さんはかつては「心の花」に所属していた。
今は塔短歌会に所属している。
塔短歌会の人からは、
池田理代子さんは別の名前で投稿していて、
多分あの人だと思うといわれたことがある。
しかし、この本では、
一度も投稿したことはないと書いている。
つまり、この歌集には、「塔」に投稿した歌は載っていないということだ。
池田さんが折に触れつつ、
何とか詠んできた短歌をまとめた歌集というのが、
正確なところであろう。
なお、出版元は集英社。
定価は税別1700円。
巻頭の一首を挙げる。

・南方の戦を生きて父は還る 命を我につながんがため

定型できっちりとした歌を詠んでいるが、
全体的にこういう歌の詠み方をしている。
ぼくのような人間には、
安心して読める歌である。


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第11回中日短歌大賞の受賞作が
12月22日の中日新聞朝刊に発表された。
荻原裕幸さんの『リリカル・アンドロイド』と
升田隆雄さんの『昼の銀河』の二作受賞が発表された。

選考会は12月19日に、
名古屋市の名古屋市短歌会館で行った、
選考委員は7名。
選考委員長は、小塩卓哉さん。
副委員長は、馬淵典子さん。
馬淵さんはかつての「原型」所属で、
斎藤史にはたいそう可愛がっていただいた方だ。
委員は5名。
前回受賞者の井野佐登さん、大辻隆弘さん、細溝洋子さん、
三島麻亜子さん、吉田淳美さん。
錚々たるメンバーだ。
この7名でじっくり審議して二作受賞が決まった。
受賞式は、1月23日、ルブラ王山で予定している。
感染状況により、
変更する可能性は当然ある。

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12月5日発行の「六花」5号の巻頭に
「師と弟子」と題する文章を書いた。
この原稿を送ったのが、9月の半ば過ぎだったが、
その後、池田はるみさんの『亀さんゐない』を
読んで驚いたのなんの。
『亀さんゐない』の「新橋「夜光盃」にて」の一連8首に
こんな歌がある。

・ドラム缶の風呂をよろこぶ茂吉なり大内豊子そを準備せり
・アララギの校正係りの茂吉なり大内豊子その妻にして
・ドラム缶の風呂に入りたる間にて斎藤茂吉の下帯洗ふ
・「煮しめたやうなおふんどし」締めてゐた斎藤茂吉そを知る豊子
・斎藤茂吉が名付けし「大内豊子」官女のやうな名前とおもふ
・未亡人大内豊子わたくしにめぐりあはせて歌をしへたり

なお「アララギの」の歌については、「山口茂吉とは」という詞書がある。
斎藤茂吉が戦後の昭和23年に
ようやく山形の大石田から東京へ帰ってきて、
弟子の山口茂吉を訪ねた際に、
茂吉は勧められて山口茂吉邸に備えらたれドラム缶風呂に入った。
そして、茂吉が入っている間に、山口の妻の大内豊子が
茂吉のふんどしと手拭を洗ったのだ。
多分、茂吉のふんどしは、東京へ帰還してから、
洗ってなかったのだろう。
このことを池田はるみさんは最初の短歌の先生であった
大内豊子から聞いたのだ。
大内豊子の本名は山口恭代。

私が驚いたのは、この歌に詠まれた内容を
「師と弟子」に書いたからだ。
池田はるみさんが山口茂吉の妻に
短歌のてほどきを受けているなんて思いもよらなかった。
私だけが調べあげたことだと少し得意になっていたことも
あって余計に驚いた。
ただ、私の文章は、
この茂吉のドラム缶風呂入浴を枕にして、
本題の斎藤茂吉と山口茂吉との師弟愛について
書いている。
関心のある方はどうぞ「六花」を求めてお読みください。

実は池田さんからは、
ぼくの「師と弟子」を読んで、
驚いたという葉書をいただきました。
大内豊子さんは、もともと茶道の大先生だったということも
書いてありました。
最初は茶道を教えていただき、その後短歌の添削を
してもらうになったそうです。


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「短歌人」12月号の連載
「「短歌人」の一首」で、
宇田川さんが青柳守音さんの第二歌集『風ノカミ』の歌を
取り上げて書いている。
青柳さんがいなかったら永井陽子さんの全歌集も
遺稿集の『モモタロウは泣かない』も刊行は難しかったと
書いているが、ぼくも同感だ。
特に全歌集は、何度か暗礁に乗り上げたのを、
青柳さんがあちこちの出版社と交渉して、
何とか刊行にこぎつけることができたと、
ご本人からその苦労話を聞いている。
青柳さんは長く県立高校の司書をしていたので、
お会いする機会があったのだと思う。
出会ったのは、多分30数年前だと思う。
誰かの歌集の会だと思うのだが、思い出せない。
しかも、その時広坂早苗さんとも出会っているはずなのだが。
宇田川さんは、最後に次のように書いている。

「二〇一〇年十一月四日、逝去。訃報は「コスモス」の鈴木
竹志さんから知らされた。あれから十年経った。そういえば
鈴木さんを紹介してくれたのは青柳さんだった。」

そうか、宇田川さんとの出会いも、
青柳さんからだったのだ。
一度だけ名古屋で行われた「短歌人」の歌会に
出席したことがあるが、それも青柳さんの手配だった。
確か当時の主宰の高瀬一誌さんとも、その会でお会いしたのだと思う。

青柳さんが亡くなられて、もう10年。
果たして自分は何をしてきたんだろうと思わざるをえない。
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