「心の花」4月号
2020/04/11
「心の花」4月号をいただいた。
佐佐木幸綱さんの「ほろ酔いインタビュー」の第17回が掲載されている。
読んでゆくと、川田順が登場しているところがあった。
その中の一部を紹介する。
「谷崎さんとの関係で、川田順さん。「心の花」の大先輩
だけど、川田さんとはよくお目にかかりました。親父の上
の世代、明治生まれの「心の花」の人では、親しい。とい
うほどではないけれど、よく見たのは川田順だよね。佐
佐木信綱の葬儀委員長も川田順だった。背の小さな人
で、痩せていたけれど、胸を反らせて歩く。住友のトップ
だったわけだからね。」
川田順が佐佐木信綱の葬儀委員長だったというのは、もちろん初耳。
川田順は、実は刈谷の町と少し縁がある。
元刈谷藩士の松本奎堂の歌碑が刈谷市
亀城公園にあって、揮毫者は川田順と記してある。
歌碑は昭和18年に建てられた。
戦意高揚の狙いもあったのかなとも思う。
というのも、
松本奎堂は、刈谷藩を脱藩し、
尊攘派の激派の一つ天誅組の中心メンバーとなった人物である。
決起したものの、結局幕府側に撃破され、大和の地で戦死した。
佐佐木幸綱さんの「ほろ酔いインタビュー」の第17回が掲載されている。
読んでゆくと、川田順が登場しているところがあった。
その中の一部を紹介する。
「谷崎さんとの関係で、川田順さん。「心の花」の大先輩
だけど、川田さんとはよくお目にかかりました。親父の上
の世代、明治生まれの「心の花」の人では、親しい。とい
うほどではないけれど、よく見たのは川田順だよね。佐
佐木信綱の葬儀委員長も川田順だった。背の小さな人
で、痩せていたけれど、胸を反らせて歩く。住友のトップ
だったわけだからね。」
川田順が佐佐木信綱の葬儀委員長だったというのは、もちろん初耳。
川田順は、実は刈谷の町と少し縁がある。
元刈谷藩士の松本奎堂の歌碑が刈谷市
亀城公園にあって、揮毫者は川田順と記してある。
歌碑は昭和18年に建てられた。
戦意高揚の狙いもあったのかなとも思う。
というのも、
松本奎堂は、刈谷藩を脱藩し、
尊攘派の激派の一つ天誅組の中心メンバーとなった人物である。
決起したものの、結局幕府側に撃破され、大和の地で戦死した。
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